Vol.5 2005.10.14 - 2005.10.30
「サイトスペシィフィックであること」
辛 美沙(東京芸術大学先端芸術表現科非常勤講師)
小松敏宏の眼差しは、常に建築とそこに住む人々に向けられている。浜松に生まれ、東京、ハンブルグ、アムステルダム、ボストン、ニューヨークと外国の都市に住み、そして今は京都に住み制作している小松にとって、サイトスペシィフィックであることは作品を構築する上で重要なファクターのひとつになっている。小松は、各国の都市で出会ったそれぞれにタイプの違う建築の特徴を解体する。そして、解体された建築的な特徴と、その特定の場に根ざした個人の経験とが一体になって、その場に根ざす建築とそこに関わる人々との関係性を浮かびあがらせる時、既存の建築空間は小松の手法によってその物理的心理的限界を解き放ちはじめる。
ちょうど5年前の10月、取手市内に「O-HOUSE」が出現した。その頃ニューヨーク在住であった小松は、「取手アートプロジェクト2000」の招待アーティストとして、作品を制作するために取手に滞在していた。「郊外都市」というテーマをもったこの年の取手アートプロジェクトでは、取り壊しが決まったいくつかの家がアーティストに提供され、その中で小松は取手駅に程近い廃屋同然の木造平屋建て住宅を選んだ。室内には、退去を勧告された前住人が所有した家財道具や日用品が、つい今しがたまで住んでいたかのような状態に残されていた。小松は、その生々しく散乱した内部空間を露呈させるために、建物のファサード3箇所を選びそれぞれ長さの異なる30センチ角の展望鏡を埋め込んだ。その展望鏡は、徐々に短くなる秋の日差しを反射しながら、散らかった時代遅れの衣類や雑誌、置き去りにされた生活用品、家具などを、万華鏡のようにさまざまな方向に反転、逆転させ、見るものの知覚を拡散させる。それは、建造物の内部空間を映し出すばかりでなく、前住人の所有物を複雑な破片として解体し、苦難の状況によって生じた住人の傷跡を建築内部に出現させることに成功している。また、家屋中央を貫く展望鏡には、この時代に取り残された廃屋と対照的に、どこにでもある日本の郊外都市の風景と車の往来が映し出され、廃屋に残る闇との対比をあぶりだしている。
東京都写真美術館で展示された写真は、地方都市に住む23家族のそれぞれの集合写真と彼らが実際に住んでいる家をコラージュした作品であるが、家は住人たちの顔の部分にかぶさる形で貼り付けられている。家屋の外観は純日本風建築であったり、あるいは日本の建築と本来脈絡のないネオクラシカルな柱を持った西洋風であったりとさまざまである。頭部を覆われているので住人の顔を伺い知ることはできないが、その家屋の外観およびディテール ―フェイクな装飾、プラスティックな質感を伴ったレンガやタイルのファサードなど― は、地方都市に突如出現する大型ショッピングモールやホームセンターを連想させ、彼らが生活を営む上での幸福観や価値観をあますことなく表出させている。顔のないファミリーポートレートともいえるこれらの写真は、小松のシニカルとも取れる手法によって、日本の近代化のゆがみを最も端的に表す地方の郊外都市という場所と、その住宅に住む顔のないファミリーとの関係性を定義づけている。
小松がまた取手に戻ってくる。取手は5年前とさほど変わっているようには見えない。取手駅前にあるショッピングセンターの5階にあるTAPサテライトギャラリーは、ショッピングセンター内にあるゲームセンターに隣接し、コンピュータで制御された音がひっきりなしに聞こえてくる環境にある。そのような環境下にあるギャラリーというホワイトキューブの空間は、物欲や快楽といった都市の欲望を満たす空間と明瞭な対比をなしている。小松にとって取手という場所はいかなる意味を持つのか。そして美術においてサイトスペシィフィックとはどのような可能性を持ちうるのか。小松の鋭敏な観察眼と静謐な手法が、すでに存在している建築空間の物理的あるいは心理的な限界を軽やかに超えさせ、取手に再び新しい空間が出現することを期待する。
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