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Vol.7 2006.1.20 - 2006.2.12

「ぴひゃん!」が起こる瞬間  小林桂子(ELEFUNTONE代表/IAMAS非常勤講師)

新津さんは自作について説明するときに、よく「ぴひゃん!」という言葉を使います。この言葉は、校庭にばらばらに散った小学生たちが、「ピッ!」という笛の合図により一瞬で整列するのを見る気持ちよさ、カオスの中から秩序を見て何かを理解したような気持ち、そんなものを表しているのではないかと私は想像します。

作品『 I WASH U 』は、手についた情報や記憶、欲望の残滓を洗い流すことがテーマです。手は物理的な動作をするだけではなくて、例えば「手を染める」「手を汚す」といった慣用句が示すように、人の行為そのもののイメージも表しています。さらに神社の参拝の前に行うように、手を洗う行為は、物理的にも精神的にも汚れを清めるようなイメージを持つでしょう。

新津さんは、前作『Massage Installation M』『holder』で、マッサージする/される、抱きしめる/られるという関係を扱ってきました。鑑賞者はどちらかの立場、「する側」である「I」、「される側」である「U」を選ぶことができます。しかし本作では鑑賞者は「U」であり、「I」は装置であり新津さん自身といえるでしょう。新津さんは自身のウェブサイトで「I」と「U」をこのように説明しています:

いわゆるメディアアート作品では、表象にインターフェイスとなる装置を使い、鑑賞者との間にある種のインタラクションを設定します。そのインターフェイスは、作者が想定したインタラクションを引き起こすために、直感的なわかりやすさや使いやすさを狙ってデザインされます。しかし新津さんのメディアアート作品の場合、装置はあくまで新津さんの「関係」への欲望、妄想でデザインされています。身体に直接触れることで可能なコミュニケーションに、わざわざセンサーやデバイスを介在させ、何を伝えたか/何を受け取ったかを尋ねようとします。一見、感覚の再現を目指す作品に見えながらも、体験してみるとベクトルの違いがあると感じるのです。

このベクトルの違いについて考えてみると、どうもこれらの作品は、「I」とアノニマスな「U」を接続するネットワークプロトコルの通信可能なレイヤー(階層)をつくる試みのように見えます。異なったコンピューター同士でデータ通信をするために、接続するケーブル、電気信号、通信経路やネットワーク機器、通信プログラムとソフトウェア、さらにそれを操作する人までの、さまざまな階層で必要な取り決め(プロトコル)に従って私たちはネットワークを使っているわけです。新津さんはこの取り決めを作品に持ち込んで、「I」と「U」がどの階層で通信できるか−物理的に接続できるか、信号を知覚できるか、データを送ることができるか、送られたデータを理解し返信できるか−新津さんの個人的な感情、妄想、欲望がどのくらい一般化され、どのくらいアノニマスな「U」に伝わるのかを試そうとしているように見えるのです。

新津さんのフィルターを通したコミュニケーションのモデルは、身体のぬくもりや濃密な人間関係を想像させますが、それは新津さん自身が「妄想」と呼ぶように、一般的にインターフェイスに採用されるような、ボタンを押す、文字を入力する、身体を動かす、声を出すというようなコミュニケーション方法とは違い、その行為と人同士の関係性が必ずしも一致しないユニークなものです。あえてデバイスとコンピューターを介在させ、情報量を減らした上でその「妄想」が「I」とアノニマスな「U」の間にどのくらい伝わるのか。「I」と「U」の間に通信可能なプロトコルがうまく設定できたとき、新津さんの思惑通り「ぴひゃん!」とつながるわけです。その瞬間に「I」と「U」が共有するものはきっと、個人的であり一般的であるような、カオスでありコスモスであるようなものではないかと想像します。

本作では、「関係」と「行為」がよりシンプルになり、前作とは異なるオブジェを効果的に使って空間を生かした展示をすることで、新津さんが意図したプロトコルが「U」に対して明示的になってきているように思えます。洗われる行為−水の感触、ボウルの底からわき上がる光の渦、サウンド、空間のしつらえ−を通じて、新津さんの妄想を想像してみてください。いつか「ぴひゃん!」となる瞬間が訪れるかもしれません。

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