TAP2006 Satellite Gallery 取手アートプロジェクトサテライトギャラリー
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  「インターフェイスの音楽」  西村智弘(美術評論家)

わたしが銅金裕司氏の「受胎振動」をはじめて見たのは「art space kimura ASK?」においてだった。暗い部屋のなかに水の入った大きな水槽が置いてあり、その向こう側の壁に水の動きが映されている。それは、ゆるやかにうねり、蛇行し、渦を巻き、たえまなくその複雑な形態を変化させていた。

「受胎振動」は、「塩水振動子」と呼ばれる現象を作品にしたものだった。水槽に満たされていたのは淡水で、そこに塩水の入った円筒が入っている。円筒の仕切りには小さな穴があいているのだが、塩水は淡水よりも重いので、塩水が淡水のなかに流れ落ちていく。その一方で、淡水は塩水に向かって上昇していく。ここに、重さの異なる塩水と淡水がバランスをとろうとして混じり合う振動現象が生まれる。

しかし、淡水と塩水はいずれも透明な水である。両者が混じり合う様子は、肉眼でほとんど見ることができない。銅金氏は、塩水と淡水の密度のちがいを利用し、そこに光を当てることによって、両者がつくりだす不思議な振動を視覚化した。壁に投影されていたのはこの振動現象であった。

銅金氏の見せ方は実にシンプルである。会場には必要最小限の装置しか置かれていないし、装飾的な要素も限りなく排除されている。淡水と塩水が演じる振動現象に注目した銅金氏は、そこで繰り広げられる運動を純粋に抽象しようとしている。このストイックともいえる制作態度によって、鑑賞者であるわたしたちは振動現象そのものと向き合うことになる。

淡水と塩水が織りなす水の流れは、予測のつかない複雑な曲線を描き続けている。曲線の運動はまったく不安定であって、一瞬たりとも同一でありえない。流体のなかにはさまざまな力がせめぎあっていて、それぞれが自然に成長するのに任されている。振動現象は、混沌のなかに柔軟な構造を自己生成するプロセスとしてある。

たえまなく生成し続ける形態の運動は、神秘的ともいえる独特なリズムをつくりだしている。そのたゆたうようなゆるやかなリズムには、どこか心を落ち着かせるような瞑想的な雰囲気があって、わたしたちの意識をより内面的な方向へと向かわせる。振動現象を長いあいだ見ていても飽きないのはそのためだろう。

ここでわたしは、クラーゲスが『リズムの本質』という小著のなかで、リズムを生命現象として捉えていたことを思い出す。クラーゲスによるとリズムとは、決して同一的なものを繰り返す規則的、機械的な現象ではなく、たえず異なったものへと回帰する運動であって、反復はつねに更新されていく。リズムは変化し、成長し、新たに生まれるものである。それは、生命的な脈動に通じるものがある。事象や形態をリズム化するのは生命そのものであり、リズムとは生命の脈動のなかで振動することを意味する。淡水と塩水の振動がつくりだすリズムもまた、このようなものだといってよい。

銅金裕司作品 淡水と塩水の振動現象は、両者のインターフェイス(境界面)で起こる。インターフェイスとは、内部と外部の境目に位置する中間領域だが、両者を混ぜ合わせて区分を曖昧にしてしまうがゆえに、それぞれを分け隔てていた秩序の崩壊という意味をもつ。しかしまた、秩序の崩壊のあとには、つねに新たなシステムの創造が予感されている。

インターフェイスとは、秩序が解体して無秩序に陥った混沌の状態であり、また秩序が発生する以前の未分化の状態でもある。しかし、この混沌とした未分化な状態にこそ生命的なものが生まれる契機がある。淡水と塩水のインターフェイスで繰り広げられる流体の運動は、生命的なものへと向かう進化を先取りしている。

不規則にねじれていく流体の運動は、人間が意識的につくりあげた構築的な世界の対極にあるといってよい。それは、秩序を飲みこみ、固定的な意味づけから徹底して逃れようとする。そして、わたしたちを混沌とした未分化な世界へと誘いこみ、秩序が形成される以前、思考以前の世界へと連れ戻す。しかし、このときわたしたちは、崩壊と創造の往還するインターフェイスの音楽を体験しているのであり、生命的なもののリズムと一体化しているといえるだろう。

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