「水精Water
Spirits やどりを描く」 辻村亮(美術/建築ジャーナリスト)
TAP
2005サテライトギャラリーオープニング企画展のひとつ、森山優子のブースに足を踏み入れると、さまざまな水面と対面する事となる。
油絵のキャンバスに見慣れた目には、少し不思議な感覚がする縦横の比率の白い紙上に、水、その表情が描かれている。
描かれているのは、絵の縁から縁まで漫慢と湛えられた水である。
圧倒的な量塊を持った水。そして深さのある水。水の表面が、鉛筆の鋭い線の集積と、画家のぷっくりとした指の腹でなでつけられたパステルの粒子の堆積で表現されている。
太陽の光りを浴びて白く反射する水の表面、そして風の気紛れからときおり垣間見える、生物を宿しているらしい懐の深い水底の黒い色。
森山はずっと水の表面を描いてきた。
私が初めて彼女にあったとき、それは80年代の終わりであったが、彼女は、パステルで日暮れるベニスの橋の下を流れる水を描いていた。その後、しばらく絵を離れロンドンや日本で設計の仕事をしていたのだが、90年代の終わりには、アイルランドのダブリンに亘り、大手建築設計施工会社での設計という仕事に携わる。
森山がダブリンにいる頃、私をグレンダロッホ、日本語に直訳すると「湖のある渓谷」という名前の場所につれていってくれた事がある。グレンダロッホはダブリンから南へ50キロほどのところで、キャンプ場や遊歩道があり、市民の休息の場となっている。しかしそこは初期キリスト教教会跡や氷河に削り取られたU字渓谷であり、憩いの場にしては妙に霊的な感じのする場所であった。なだらかな遊歩道をしばらく歩くと、氷河湖にでる。音はまわりの山に吸い込まれてしまったように静かで、ほとりには白い石がごろごろと積み重なっており、真黒い水に満ちた古い湖がある。湖底に古代の植物が堆積しているらしくほんとうに黒々とした水を湛えているのだ。どうやら、彼女は忙しい中を縫って何度かその場に足を運んでいたらしい。
グレンダロッホの風景に影響されたのかどうか定かではないが、そのあとすぐに、彼女は潔く大企業での高給を捨て、またもや水の絵を描くことに没頭し始めることになった。ロンドンにもどり、小さな部屋にこもって、その住居近くのハムステッドポンドのよどんだ水を描きはじめたのである。ポンドのよどんだ水を描き終えた後には、テームズ河の流れを、そして、日本に帰る毎にこども時代を過ごした取手の水風景を描いている。
彼女の描く水はすべて自分の生活の近くにある、川、湖、池の絵である。
そうした身近な水の絵を、建築家にとっては一番身近な道具である、鉛筆を使って何年も描き続けている。今回新しい画材として、サイアノタイプにも挑戦しているが、そのブループリントといわれる色もまた、建築家にとって馴染みの深いものだ。
水の何に森山はそれほど惹きつけられているのだろか。
彼女は言う。「私は心の向こう側の風景を描きたい。目指しているのはbeyondなものです。consciousな部分を超えたところにあるもの、というより人間のunconsciousな部分に訴えるものを描きたいのです」。
壷の中には仙人が住む、そして湖水の中には魔物が潜むと昔からいわれてきた。およそ、人間の目の届かぬ次元には、人智を超えた何かが宿っていると思われてきたのである。
水は生命の源である。そしてこの世とあの世の境界線でもある。水は生命をやどす母なる優しさと、人智を超えた畏怖の世界を併せ持つ。
「水精 Water Sprits」は、水の表面をなぞりながら、その奥に宿った何ものかを描いているのである。人間がまだ見たこともない生命か、霊魂か、それとも神の存在だろうか? 水はそれを住まわせ、隠し、潜ませる。人間を超えた何かを孕み、外へ出してみせようとはしないのだが、ときおり、それの息遣いを確実に感じることがある。湖面を吹く風が波紋をつくるのと同様に、水の表面の裏側から、さざ波がたつ。水の底からたちのぼってくる呼吸、霊気、水の表面をじっとみつめていると、風とその息遣いのせめぎ合いを覗き見ることができる。
森山の描く水の表面は、人智を超えた世界と、我々の世界の閾なのである。
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