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Vol.9 2006.4.21 - 2006.5.14

アーティストの視線/視点  兼平彦太郎(キュレーター、ライター)

アーティストのアーティストたるゆえんとはなんだろう。毎日の光景の中にあるなんでもないことを切り取り、それを人々に気づかせること。その視線、その視点を持ち合わせていること。特に現代美術とよばれるフィールドで活動しようとするならば、精巧に形を作りだすこと以前に、この独自の視線/視点がアーティストの素質のひとつとして重要視され、アーティストとしてのアイデンティティーと評価を確立する指標になることも多い。

街を歩いているとき、ふと視線を落とすとコンクリートの割れ目から生えている植物がある。水が流れ滴りおちている穴がある。そんな日常のなかに潜んでいる光景を彼は切り取る。そこがたとえ都市のひずみや想定外の作意を孕んでいる場所だとしても、そこは「植物が育つことができる場所である」という事実。あるいは、その可能性がある場所であるということ。そのことに彼の視点は向けられる。

彼はそれらの光景をドローイングに描き、そしてそこに育つことができる(であろう)植物の物語を紡いでいく。この彼が想い描いた都会の中のファンタジーともいえそうな物語の舞台は、誰もが一度は目にしたことのある光景であり、そして通り過ぎてきた日常の一端にほかならない。私たちはアーティストの行為によって、その一端に気づかされるのだ。

しかし、その都会の中のファンタジーともいうべき光景は、実は私たち人間の一方的な思い込みなのではないだろうか。植物にしてみれば、そこは育つことができる場所である、ということ以外、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

「そこに見えるのは、植物が育ち、そして光を目指し伸びていくという、彼らにとってはなんでもない、ごくごく当たり前のこと。」

彼は、あるときそのことに気づき、彼らの生育を肯定するでも否定するでもなく、ただ、その事実を確認するためだけに、その舞台となりうるであろう場所に植物の種子を蒔き、それを観察することになる。

その観察過程の記録と公開ともいえるものが、一連のシリーズ『発芽−雑草』である。種子が蒔かれる場所は、建物のひび割れ、隙間、排水溝、タイルカーペットや畳、果ては美術館床のフローリングにまで至り、発芽から成長、そして枯死まで、その過程と環境のすべてが要素として構成される。しかし、その場の環境へと大きく委ねられたそれには、彼のアーティストとしての作為は、ほとんど反映されることはない。されるとすれば、その場所を選択したということ。ただ、それだけだ。

では、これら一環の彼の行為を作品と呼べるのか否か。また、彼はアーティストたるのか。それは、ここでは思慮すべき点ではない。なぜなら、彼が私たちに提示しているのは彼独自の視線/視点であって、物質としての形態を伴うものではないからだ。私たちが、その空間に身を置きそれらの行為を観察するということは、結果として彼のアーティストとしての視線を共有したことになり、視点を認識したということになる。それはすなわち「植物の育つことができる場所である」その場所の目撃者になったことを意味し、また、そこが「その場所」であるという事実を私たちは知らされるのだ。

そこの場所で植物が育ち枯れ落ちていくさまは、現実であって、ファンタジーの世界のことではない。しかし、私たちは、どうしても考えてしまう。無意識のうちに植物に人格を与えて、物語を紡いでしまう。そのことを否定はできない。独自の視線と視点をもって、日常の中に潜んでいた光景を私たちに気づかせた彼は、結果、私たちにその後、想像と思索をさせた。それはアーティストの仕事、テクニックのひとつと言えるのではないか。

アーティストのアーティストたるゆえん。それは人にあらゆる想像と思索を促すこと。それにほかならない。



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