TAP2002では、独自の自主企画として市民や学生たちの積極的な参加により「舟プ ロジェクト」が実施された。この地方の旧家にいまなお保存されている「サッパ舟」
を結集した舟橋と、そのかたわらに浮かぶ「高瀬舟」を原型とする新造舟。舞台は小堀(おおほり)の古利根沼が選ばれた。
「川」というテーマは、利根川沿いに東西に長いこの取手のまちでは、特別な意味 を持つ。徳川家康が江戸に入ってまず着手したのが、利根川を付け替えて東の銚子へ
そらすことだった。現在の利根川は流域面積では国内一の大河だが、昔の常陸川を軸 にこの地方の湖沼群をつなぎ、湿地帯を掘削した人工の川である。これによって、湿地帯であった江戸の有効土地利用が可能となり、相馬の穀倉地帯が現出した。さらには危険で不安定であった東北地方からの海運が、房総回りをさけ銚子から内陸舟運にすることで飛躍的に安定したものとなった。この利根川舟運には「高瀬舟」が用いら
れたが、他の地方と異なり材質が薄く軽いのが利根川の高瀬舟の特徴であり、その操船技術は高く評価されていたと伝えられている。湿地帯と湖沼群を結んだ川であった
ため、上流は水深が浅く、外洋から利根川に入って上ってきた大型船の積荷は、比較的小型の舟に積み替えられ、さらに関宿まで上がって江戸川に入り江戸に向かった。
利根川沿いには多くの寄港地があったが、この積み替えのための中継点として特に栄えたのが利根町の布川や、取手の小堀(おおほり)だった。また、穀倉地帯となった後も度々水害に悩んだこの地方では、多目的の作業用「田舟」とか、より大型で家人の緊急避難にも用いられた「サッパ舟」は、農家の生活の必需品だった。
時代が明治になり、鉄道が敷かれ道路も整備されるにつけ、利根川舟運は衰退して いった。そして、迂曲していた利根川が直線的につけかえられたため、小堀地区は現利根川の対岸に残る飛び地となった。今は釣り人に好まれる三日月形の古利根沼をかかえた二百数十戸のひっそりとした集落で、数年前まで子供たちは渡し舟で通学して
いた。今は生活のための主な交通手段はバスに切り替わり、渡し舟は運行されている ものの観光的意味合いが強まっている。
このような歴史的背景をふまえてスタッフが様々に検討を重ね、紆余曲折はあった が、「川」−「舟」−「舟橋」という「舟プロジェクト」の企画概要がまとまった。
北側を流れる圧倒的質量の利根川によって中心市街から隔てられた小堀地区。茨城県 と千葉県、取手市と我孫子市の行政上の境界線は三日月形の古利根沼の上に引かれて
いる。いってみればボーダー(境界)に囲まれた地区だが、歴史的背景をもつ高瀬舟を新造し、サッパ舟を連結して舟橋とし、古利根沼に浮かべることで取手と我孫子を
つなぐ。会期中の17日間「ボーダーを開く」、これがこのプロジェクトのコンセプトである。
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