半農半芸 - TAKASU HOUSE
終了しました 2013/01/20
ジョン・ホールデンの『Cultural Value and the Crisis of Legitimacy』を読み、今、文化の本質的価値が問い直されていることを知りました。
そこで、今回のブログでは、なぜ今文化の本質的価値が問い直されているのかをホールデンの文化の価値の3類型から紹介し、
そしてそれを受け、私は本質的価値を価値化する手法として「ドキュメント的価値」というものを考察してみます。
この二つ並んだ3つの体系は文化の価値とその担い手として対応しています。
まず、〈本質的価値〉についてですが、これは個人の体験を通して得る精神や感情に関わる価値を言います。
具体的に考えるためにイギリスのダンスユナイテッドの事例を簡単に交えて3つの価値を私なりに説明してみます。
ダンスユナイテッドという団体が少年院で行なった青少年更生プログラムAcademyは、プロのダンサーを育成するメソッドから開発された教育プログラムであり、受刑者たちが一定期間ダンスプログラムを受け公演を行なった結果、実際に数値として再犯率を下げたことが知られています。
そこでの〈本質的価値〉とは、そのダンスプログラムを受けた個人個人が「公演後拍手をもらいなにか自信がついた」「互いの身体に触れ合うことにそれほど違和感がなくなった」「なにかひとつのことに集中して取り組んだのは初めての体験だった」のように、個々人のレベルで各々得た価値を意味します。
なので、その担い手は個人である〈市民〉です。
そして共同体的価値とは、そうした本質的価値を受け、〈専門家〉がその価値を社会化し共同体の価値として提示するようなものを言います。
たとえば、「公演後拍手をもらいなにか自信がついた」という〈本質的価値〉に「それはあなたが社会から肯定される経験といえるのではないか」、「互いの身体に触れ合うことにそれほど違和感がなくなった」という〈本質的価値〉に「それは身体を通したコミュニケーションや協調性を学んだことになるのではないか」とInstitutionalizeし、個人個人が受けた感覚的なものを価値化し社会に共有し、今ここでないちょっと先に必要になるかもしれない新たな価値として提示するものです。
そして、〈手段的価値〉は主に数値として示すことが可能な教育的・経済的価値などの波及効果、影響力を言います。
ここでは、再犯率が◯%から□%に下がったという具体的な数字を主に意味し、その数字は〈政治家や政策立案者〉にとっては文化を公的に支援する、数字という具体性をもった大きな説得力をもつ根拠となります。
こうして事例を交えて考えた時に、私は次のようなマトリクスを作成してみました。
まず個人である〈市民〉にはより具体的な〈本質的価値〉があり、それが〈専門家〉により客観化され社会化され〈共同体的価値〉となり、それはやがて〈手段的価値〉となって数字という具体性としてその波及効果や影響力が示せます。
こうしてマトリクスにしてみると、〈本質的価値〉と〈共同体的価値〉の間にワンクッションあることに気づきます。
今〈本質的価値〉が問い直されているというのは、〈手段的価値〉の数字を集めることに重きを置きすぎた点にあります。
あるいは数字を出すことが目的化したとも言えるかもしれません。
観客数が多ければいいのか、経済波及効果が大きいことがアート活動にとっての成功(評価)なのか、というように。
文化を公的に支援する根拠を社会に役に立つ(まちづくりや教育など)からと、〈手段的価値〉に頼りすぎてしまい、社会に目を向けすぎて、文化にとって本来もっとも重要な個人と向き合うことを忘れていないか、そもそも文化とその社会的効果の因果関係の証明は難しく、その手法を持ち合わせていないことをホールデンは言っています。
(※手段的価値が悪いものではなく、文化には手段的価値があることはわかり、しかし、本質的価値を忘れてはならないことを述べています)
そこで、個人のレベルのまま、〈本質的価値〉を抽象化=客観化したものとして何が考えられるかと思った時に「ドキュメント的価値」なるものを私は考えました。
これは具体的にはアートプロジェクトの活動などを記録したものを意味し、そしてそれがどのように文化の価値として考えられるかについて、次のようなことが言えると思います。
まずそもそも記録としての価値があると思います。
それは、特に震災以降のアート活動では、半農半芸でも放射線量の記録を続けていましたが、プロジェクトFUKUSHIMA!の活動の記録などはそもそも未来の歴史家にとって充分に記録として価値があると思います。
また、震災以降の活動に限らず、地方都市の社会的・政治的課題を抽出することが可能なアート活動というのは多くあると思います。
そのことに関しては、民間の芸術支援の存在として充分にアーツカウンシル的なAAFが『地域を変えるソフトパワー』(著:藤浩志、AAFネットワーク)の中で既に、まちづくりの事例を通じて地域の課題を見つけ出す力を創造力(ソフトパワー)とよんでいたり、主に民間の側からドキュメント的価値は作られつつあるのではないかとも思います。
次に、そうしたアート活動の記録のストックが、芸術を助成する基準、あるいは芸術活動を評価する基準を作れると考えます。
AAFのこうした著作は他の企業がメセナをする際の基準になるのではないでしょうか。
また、そうしてストックされていく記録はその社会、その時代などの文脈で読み替え可能なものとして存在することで、
価値の再生産が可能ではないかとも考えます。
それはボリス・グロイスの論考『生政治時代の芸術——芸術作品からアート・ドキュメンテーションへ』を読んでも、そもそも既に非物質的な芸術実践が多くある現在、作品と呼べそうなものはほとんどアート・ドキュメンテーションになり、
その記録物は死んだものではなくインスタレーションとして展示されることで息を吹き返すとされており、私はその点については若干の違和感はあるものの、しかしドキュメントがその先でまた新たな価値を生む可能性は考えたいです。
そして、大衆に受容されるような文化ではなく、アートの中で個人対個人の関係に現れる本質的価値を記録するようなドキュメントによって、「価値の複数性を保証する空間としての公共性」(齋藤純一)の提案が可能になるかもしれないとも考えています。
アーレントによると、「自分のものではないものが自分の前に現れるということが私たちの生にとっての基本的なニーズである」という前提で公共性について考えるんですが、多様な社会で自分とは違う他者=わかりあえない他者と出会うことの価値だと私は思っています。
そうした他者と出会い、違いに目を向けていく姿勢の大切さを考えます。
昨年私は東北の被災地を訪れ文化活動に携わり、そこでも私はわかりあえない他者=想像不可能な被災経験をした現地の人たちに出会いました。
本来面と向かってはコミュニケーション不可能です。
しかし、アートを通じて、具体的な野点のための作業を通じて、本来コミュニケーション不可能な関係のはずが
コミュニケーションできてしまっている状況に気づかされました。
そこにもアートの〈本質的価値〉が隠れているのだと思います。
現代ではテクノロジーによってフィルタリングができ、気の合う人、趣味の合う人、価値観の合う人とだけつながる、出会うことが可能な環境にあり、自分が出会いたくない=欲さない他者を排除することも可能ですが、それはアーレントの考えるニーズにはそぐわず、そもそも公共性というのを考えてみた時についつい共同体の中の普遍的な一元的な共通善・価値観のようなものを連想してしまいがちです。
しかしそうではなく、みんなバラバラでいい、価値の複数性があってもいい、むしろバラバラであることによって公共性が成り立つという考えの転換が求められていると思います。
わかりあえないながらも、自分が欲さない他者と出会い、コミュニケーションする、コミュニケーションを可能にしていくアートに〈本質的価値〉はあると考えます。
そして、その価値をなんらか記録していくことの重要性を私は今後も考えたいです。
まとめます。
文化の価値の3類型をマトリクス上で考察してみると、〈本質的価値〉と〈共同体的価値〉の間にすきまがあり、あまり一般には見えていない三角形の辺の間のやりとりになにがあるのか、〈本質的価値〉の抽象(客観)化、さらにはそれが社会に何をもたらすのかまでを含めた記録として「ドキュメント的価値」を考えてみました。
そのドキュメントはそもそも記録として未来の歴史家にとって価値があり、そのストックは芸術支援の基準を得ることにつながり、新たな公共性の概念を構築しうるものであるのではないかと考えました。
今、ドキュメント的価値と呼んでいるのは、マトリクス上で個人の象限に見出しているからであり、アーカイヴのようなより客観性の高い(ドキュメントのように主観性の混じらない)概念とはあえて切り離していますが、そのことは今後もよく考えなければなりません。
アート活動における記録への注目には以下のようなシンポジウムもあるようなので、参加してきたいと思います。
【2月13日】国際シンポジウム
「地域・社会と関わる芸術文化活動のアーカイブに関するグローバル・ネットワーキング・フォーラム」
http://www.art-society.com/report/gnf_130213.html
投稿者:風間勇助