TAPの現在地 - 定点観測 事務局長エッセイ, 半農半芸 - 藝大食堂
終了しました 2021/08/20
TAP事務局長(兼藝大食堂で時々番頭、兼ヤギの目メンバー)の不定期エッセイ第2回です。
「ヤギ」と「社会包摂」を考えはじめたきっかけは、ヤギの周りに色々な立場の人がいたとして、その人たちをそこに居させることを「ヤギがいる」という事実が当たり前にすることにふと気づいたことからでした。
「ヤギの目」がさまざまな立場の人が集まる混成チームであることもさることながら、チームメンバーかどうかを問わず、ヤギに会いに来ている人たちと居合わせることがある。ヤギがいれば、その人がそこにいる理由が瞬時に成り立つ。
コロナ禍の大学の中なので、実は自由な入構はちょっと、というのはあるはずなのだけれども、キャンバスを持った高校生がヤギを探してやってきたり、高齢のご夫婦が「ヤギに会いに」とおっしゃっていたりすると、ヤギを眺めながら自然と言葉を交わす空気になる。
当たり前のことだけれど、そのいろんな人が気楽に居合わせられる事実に正直妬いてしまった。だって、その場に関わろうとしてくれる人がなるべく自分を出しつつ、自由に居合わせられるバランスを、アートプロジェクトが心を砕いて必死につくってきたことを考えると、こんなにいとも簡単に、立場の違う人たちが自然と同じ場にいられる状況をつくってしまえるんだと唖然としてしまったのだ。
そこからヤギによる社会包摂を考えていたら、「社会包摂」を掲げる事業に接するときにいつもちょっと感じている違和感を思い出した。
社会を包摂するのは誰か、という主体と、働きかけの方向性について。
社会包摂を求める声は、包摂されていない立場とされる側から発されることは稀だ。社会から押し出され、見えない存在とされている当事者からは、包摂されていない事実がそもそも見えづらいし、声を上げることは本当に難しい。でもその意味で、多く語られる「社会包摂」は、時折一方的であったり、強権的であったり、押し付けがましいものになってしまう危険ととなりあわせであることを意識しないと、暴力になりうると思っている。
そう思い巡らせるとなおさら、ヤギの社会包摂は、とても穏やかで平和な最初の一歩なのではないか、と思えてきた。アートプロジェクトがつくろうとする状況と比べて、関わりの深さの違いはもちろんあれど、ヤギがいるだけで、こうもその場にいる人が軒並みフラットに関係をはじめられるものだろうか、と思うのだ。
そう感じさせられる所以は人ではない彼らの世界の認知の仕組みにもあるかもしれない。
ヤギの水平な目に映る景色はどんなものなんだろうかと想像してみる。
すると、人間である自分の身体感覚では想像しきれない範囲があることに思いが至る。
草食動物だから、左右180度以上見えていて、ほぼ身の回り全てを感知している彼女たちの視野は、身の回りのさまざまな存在について、ありのまま情報として受け止める。そして応える。それが美味しい草だったら食べるし、ちょっと怖い音がするバイクだったら逃げる、撫でてもらいたい人の足音だったら、大きな声で鳴いてみる。
なんどもいうけれど当然のことだ。ではあるんだけれど、そんな彼女たちのそばでその感覚を推し量ってみようとすると、心底自由だと感じる。人間だけの社会では、この体験はきっと簡単には成り立たない。そして、おそらく犬や猫、馬などでも成り立たない(ように感じる、人との距離の取り方が)。ヤギたちの、周りにいる人たちの興味関心に対する素っ気なさや寄り添い方(あなたはあなた、私は私、過度に依存しない、基本的に自立している生き方)が、心得た距離感にしか思えない(ただし甘えん坊ではある)。
そして彼女らの時間のリズムも、日々分刻みで生きている私たちにとっては新鮮だ。中でも一日のうち一番多くの時間をかけて行われる反芻と、周囲の環境に「応える」型の生き方について。
反芻は、なんというかまずはなんでそんな風に進化したの?という体感できない草食動物の体の仕組みではあるけれど、一度飲み込んだものをもう一度たっぷり時間をかけて咀嚼する、というのは、アートプロジェクト界隈のみならず、仕事の仕方として憧れる。
後者の「応える」型の生き方、についてはこれもまた人でない生き物には完全に自然なことで、半農半芸で会得しはじめた草刈りでも実感したことだけれど、例えば天気や季節だ。雨なら濡れないようにじっと過ごす。季節の移り変わりで日々旬の美味しい葉は変わるので、その時自分が美味しいものだけ探して食べる(そのため、広大な取手校地のなかでの2頭による除草の効果はあまり絶大ではないことが明らかになった)。身の回りの環境や存在がどう動くか、どう変化するかを受け止めて、どう動こうか反応する。自分で決めて、自分が責任を持って主体的に動く、ということが良しとされている世界について、あれそれって本当にそうでしたかしら、と言われている気がする。
長くなりました。
こういった感覚が、いわゆる「社会包摂」が実現された状況がもたらす豊かさの擬似体験なのではないかと感じている。ヤギを迎えて、屋根も壁もない、透明なアーツセンターを目指すと掲げはじめたことについて、まだ明確にその未来がなんなのか、はっきり見えてはいないけれど、少なくとも私自身がアートプロジェクトに関わってきた中で、「ヤギの目」のメンバーとしてその未開の活動を共にすることが、これからの社会にとって面白い方向だ、と予感する理由はその感覚にあるのだろうと思う。人間がつくった構造によって見えてこないものがあることを、ヤギと過ごす時間、またヤギと過ごす人たちと時間を重ねるときにふと感ずることがある。さまざまな道を歩いてきた人が時間を共にし居合わせていることが、この活動が未知数であることを約束していると思っている。
混沌から何が生まれるんだろう。広く見渡す水平の目に映したい社会を空想しながら今日もヤギを愛でています。
text: 羽原康恵(特定非営利活動法人 取手アートプロジェクトオフィス 事務局長)
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