半農半芸 - TAKASU HOUSE

勉強会・研究会 「農業問題の本当の危機、それから宗教観の話」

終了しました 2012/10/14


先日、本屋さんで農業経済学の神門善久先生の本を見つけました。

『日本農業への正しい絶望法』という神門先生の人柄を想像するタイトル。

主な内容としては、日本の農業というのは自然との調和を測るような(里山的?)
”技能集約型”が適していたにもかかわらず、個人によるマニュアル本通りのヘタクソ農業が横行・席巻していき、農地利用の無秩序化という川上の問題と、消費者の舌の劣化という川下の問題に挟まれ、日本にもともとあった技能なるものが失われつつあり、もうそれは取り戻せないだろうという絶望感。

今の農業にとって耕作技術の低下が最も危機だとしています。

そんな神門先生には半農半芸が都会の若い人に対する農への接点を促すようなロハス的なものであると思われるなら、強い反対を受けそうではありますが、前述の食や味覚の川下の問題なら少なからず取り組んできたものがある気がします。

農業の厳しさを知るべきとするなら、これから先、身体で頭で素直に大地と向き合おうとする方向性は間違っていないと確信できます。

もっとも、農業だけに焦点をあてているプロジェクトでない以上、神門先生の考えに100%答えるプロジェクトでもありませんが、こうした問題意識をもとりこめるプロジェクトであったらと思います。
さて、話題は変わりますが夏の集中講義で宗教学を学んでいました。つくづく日本の宗教観というのは不思議だなと思いました。
(『ふしぎなキリスト教』の中で大澤真幸氏が、「神様は完璧ならもっと合理的な世界で完全な人間を作ったらいいのに」と皮肉るのはとても面白く、むしろ不思議なのはキリスト教の方にも感じましたが。)

今や世界的スタンダードである一神教(キリスト教)ですが、当然原始的な宗教はアニミズム的なもの=万物に神様がいるというものであり、多神教的な考え方がスタンダードでした。
(ちなみにG7の中で多神教の先進国は日本だけです。)

しかし、ユダヤの人々はさまざまに不条理な侵略や戦争という悲惨な歴史を歩む中で「なぜわれわれはこんなにも苦しまなければならないのでしょうか。」と唯一神をつくり、その神に問わざるを得なくなりました。ユダヤ教やキリスト教は、あらゆる苦難を試練化(試練として受け止めさせる)するような教えに感じます。

そう考えると、日本が未だに多神教でいるのは日本という国は他民族による侵略のような、人々が不条理と感じる歴史的経験がなかったことにもなります。
自然災害による経験はもちろんありますが、それはかえって自然への畏怖を促すものとなります。

唯一侵略してきた民族といえば、縄文時代の後の弥生人たちですが、縄文人と弥生人は争うことなく、共生しました。
縄文人たちが持っていたアニミズム的信仰と、弥生人たちが運んで来た稲作(里山の保全のような自然との調和が不可欠な技術・文化)とがマッチしたからだと考えられます。

その後、仏教が入ってくるものの、それをも本地垂迹説としてこれまたうまく融合してしまったのです。
これは簡単に述べてしまえば神様を拝むことがそのまま仏様を拝むことにもなるというなんとも都合の良い考えではありますが、
本地という「仏教の心理」が日本において迹=神としての姿を垂れたという理論的な融合だったのです。
伊勢神宮ではアマテラスという太陽神を祀っているが、そのアマテラスの本地仏は大日如来であるという具合です。

一神教と多神教では明らかに自然観が異なります。
一神教にとって自然とは唯一神の被造物であり、
人間にその管理を任されたものである(スチュワードシップ)ので、自然に畏怖を覚えることなく客観的に分析し自然科学が発達、近代科学革命が起こりました。
さらには、植民地開拓や資本主義の発達の中で土地(自然物)を売買し、恐るべきスピードで環境破壊が起こっていきました。

ワンガリ・マータイ氏が注目したことで知られる「もったいない」という言葉や、「ありがたい」「いただきます」などはもとは仏教用語といいます。
つまり、よく日本は無宗教だと言われますが、宗教観が日常化してしまっているだけともいえます。

河合隼雄さんが面白いことを言っており、「カトリックはパートタイム宗教、日本の宗教はフルタイム宗教だ」と言うのです。
カトリック教徒は月曜から土曜までは好きなことをして、日曜日になると教会へ行って懺悔をすれば許してもらえる、つまりカトリック教徒は日曜日だけパートタイムで敬虔な気持ちになり、一方で日本人は四六時中「ごちそうさま」「ありがとう」と言い、
花を愛で山や自然に神聖さを感じ、そういった宗教観が日常化しているというのです。
(※参考文献『資本主義はなぜ自壊したのか』中谷巌)

半農半芸は新たな価値観を模索しながらも、古くからというより、潜在的に私たちが持っているかもしれない価値観を探るものでもあっていいのかなと思いました。

(投稿者:風間勇助)

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